ALORC-Bottle-Craft-512-Logbook(Ⅱ)

AよりRへ。記録を継続する。(二冊目)

”今、そこに”いない私が知りえること、知りえないこと。

 たとえば、アイスランドの火山噴火地球が寒冷化するという話はどうなったのだろうとか。
 たとえば、メキシコ湾での原油流失事故による環境への影響はどうなっているのだろう*1とか。
 たとえば、西日本が大騒ぎになった口蹄疫*2で損害を受けた畜産業者は今どうしてるのだろうとか。
 たとえば、TPPに参加するしないの議論*3は何処に行ったとか、OWS*4は続いているのだろうかとか。

 今、まさに事が起こっている時。そこに居ない私が知りえる事は何もない。
 今、まさに話題の渦中にある時。そこに居ない私は多数のフィルターを通して情報を得る。
 話題が移り変わって埋もれた時。ネット上で軌跡が途切れたら、もう私には*5何も見つけられない。
 「ネットに無いものは在りません」という物言いは確かに倒錯している。新聞であれテレビであれ制限内で取り扱える情報量は有限で、ひとつの事件が集中継続して追いかけられる期間も限られている。そちらに一次情報を依拠する限りにおいてネットもそうであろうし、そうでなくとも溢れかえる話題の中で鮮度を保つ事は難しい。そうして置き去りにされた事件事故議題話題は下手をすると省みられることなく大多数の人に忘れられる。ここ数年の重大事件を余さず覚えているなんて人は滅多におるまい。だから逆に2chで今年の事件を挙げるスレッドとかに人が書き込みが集まるのだろう。はたしてその集合知は有効であっても、もし其処から漏れたらそれは存在していないのか?

 ネットに続報が挙がらなくなっても、どれだけの人が覚えていなくとも忘れようとも、一度起きた事は無かったことにならない。当事者にとっては現在進行形かもしれない。似たような事を前にも書いていたが――「べき」論云々と言うまでも無く綺麗事だ。世に氾濫するパワーは、意図的であれ無意識的であれ何事かを知らぬ間に掻き消していく。
 だからどうした、だから何ができる→ブログが書ける、てのがこれまでの記事の着地点だが……今後もなにか忘れている気がする時、それを僅かなりでも思い出せた時、またこうした記事を私は書くだろう。
 書くのは誰のためでもなく私のためだ。主に澱んだ頭をすっきりさせるためだ。故に正義など要らぬ。偽善など知らぬ。真実も解答も無くても、それが私が思ったことだから書いたのだ。ところでこういう文言を、私は誰に対して綴っているのだろうか。
 その答えも思いつかぬままに、この記事は、これで、おしまい。

(翌日追記;そんなこんなで、「終わコン」という言葉は聊か虫が好かない。終わっていようといまいと、何であろうと出逢った時が私にとっての「始まり」だ。)

*1:日本海で「ナホトカ」号が重油を流出させた時みたく石油を分解するバクテリアが頑張ってくれたという話は本当だろうかとか。

*2:他にも新燃岳の噴火とか鳥インフルエンザとか。

*3:あと参加する事で二次創作が危ないという話はどうすればよいかとか。

*4:Occupy Wall Street”。

*5:「実際に其処に行って確かめてみる」というオプションを除外すれば、